クールジャズ、ウエストコーストジャズの中でもテナーサックスの名手と呼ばれるスタン・ゲッツ。
その才能は幼き日のから発揮されアメリカのジャズ界でも知名度が上る、、とまではいかないが確実にレベルアップはしていました。
前回のブログでは誕生から下積み時代までを書きましたは今回のブログでは、デビュー以降のお話を書いてきます。
ここからの内容はWikipediaほとんど書かれていないので知らない方も多いかもしれません。
多くの有名ミュージシャンとの関わりが出てきます。
目次〜ダイジェスト〜
1_スタン・ケントン楽団を去った後
ゲッツがスタン・ケントンのバンドを抜けたことが他の名のあるジャズバンドのリーダーの耳に入るのも時間の問題でした。
それもそのはずあのスタン・ケントンのバンドの首席サックス奏者を務めたほどのゲッツです。
みんなゲッツを自分のバンドに、、なんてことを考えたようですが、あのジミー・ドーシーもその例外ではなくゲッツに誘いをかけました。
ゲッツはスタン・ケントンのバンドの巡業の都合でシカゴにいました。
ドーシーも巡業の都合で今からシカゴに向かい演奏し、その後ゲッツの家のあるロサンジェルスに向かう旅程だったのでゲッツにとっても好都合でした。
特にゲッツにとってドーシーの楽団から得られる大きな刺激はなかったそうですがドーシーの穏やかなリーダーシップに感銘を受けたそうです。
L.A.のやや下方、サンディエゴでの演奏を終えたゲッツはドーシーの楽団を退団しました。
演奏仕事の前途が明るいだけでなくどっぷりハマっているドラッグ、ヘロインを手に入れるための新しいコネクションも見つかったので彼は幸福な気持ちでした。
その後、初めてのゲッツのリーダーライブとしてのギグを行います。
場所はハリウッドの”スウィング・クラブ”、メンバーはピアノはジョー・オルバニー、ドラマーはジミー・ファルツォーン。
ベースレスのトリオで演奏したそうです。
この編成なかなか面白いと思いませんか?
というのも日本のジャズを題材にした漫画、ブルー・ジャイアントの主人公である大(ダイ)が東京で組んでいた編成と同じです。
通常であればサックス、ピアノにもう一つ楽器を加えるとしたらベースやギターなんかが一般的ですがあえてのこの編成。
ブルー・ジャイアントはもしかしてゲッツのこのを一件を参考にした?など考えてしまい、なんだか偶然とは思えません。。
ゲッツのこのトリオ、特にピアノのオルバニーは新しいビバップ・ジャズを変革し始めたばかりの新しいジャズのスタイルの先駆者でした。
ビバップジャズといえば真っ先に名前が上がるのは「バード」愛称で知られるチャーリー・パーカー。
パーカーはビバップのスタイルを作り出したビバップの父として多くのジャズマンの憧れでした。
ビバップの特徴を簡潔に説明するのは難しいものがあります。
即興演奏(アドリブ)を行う際にその曲のコードを感じさせるあらかじめ作っておいたフレーズを適材適所に細かく入れて楽しむ遊びとでもいいましょうか?時には譜面上に明記されていない箇所に架空のコード進行を見出したり、コードを別のコードに置き換え、音数の多いフレーズを当てはめ即興演奏をアートとして楽しむこともあります。
もちろんゲッツにとってもパーカーは特別な存在。ジャムセッションなどで遭遇するとここぞとばかりにそのテクニックを自分の糧にしようと躍起になっていたそうです。ですがこれはまた後での話。
ある日ゲッツはSWING JAZZの大御所であるあのベニー・グッドマン楽団からオファーがくるのです。
こうしてゲッツはまた一つ、スターへの階段を上がることになるのです。
2_ゲッツ、SWING JAZZの大御所べニーグッドマンとのファーストミート
あの大御所の楽団と契約を結べた!と喜ぶべきところですがゲッツはその時のグッドマンの楽団が混乱の真っ只中にいることを知りました。
アメリカのジャズポップ音楽のTOPを極めたベニー・グッドマン楽団でしたがブッキング・エージェントと揉めてグッドマンはバンドを解散させてしまうのです。
それには多くのファンが驚いたのは言うまでもありません。
しかしグッドマンは自分がミュージックシーンの第一線から外れてしまったことを寂しく思うようになり新たにバンドを立ち上げたのです。
しかし当時のメンバーは戦争の兵役に出ていたり他の楽団で既に仕事を見つけてしまっていたりでなかなか良いメンバーに出会えず苦労していたそうです。
グッドマンと関わりのあったサックス奏者のダニー・バンクによるところ
「1年半の間で80人くらいのメンバーが入ったり出て行ったりしていた。まるでパレードだったよ」とそのメンバーの確保が困難だったことがわかります。
ゲッツとグッドマンのファーストミートは最悪、からの最高でした。
演奏の際にゲッツは演奏ではない部分で『やらかす』のです。
当時のバンドのマネージャーによると、
「本番中ゲッツはふざけて譜面台に馬鹿なサインを書いて乗せいていた。それを見た団員や僕らは笑った。もちろんベニーも。でもベニーは笑い終わった後、僕に言った。『あいつを首にしろ』って。」
しかし幸運なことにグッドマンは考えを変えたのです。
それは彼はゲッツの演奏をとても気に入ったからです。
グッドマンはレスター・ヤング・ファンクラブの創立メンバーであることから同じくヤングを崇拝するゲッツのプレーに感銘を受けたのです。
ゲッツの力強いSWINGでサックスセクション全体が盛り上がることをグッドマンは喜びました。
3_ゲッツ、52丁目通りで受け入れられる
ジャスファンの方は52nd Streetと聞くとピンとくるでしょう。
52丁目通りは多くの名門ジャズクラブやバーが軒を連ねていた。そこでは毎夜のように、しかも同時開催でチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー、デクスター・ゴードン、マイルス・デイヴィスが演奏を行っていた。
中でもディジー・ガレスピーには面白い逸話が残っており、トランペッターのショーティー・ロジャーズ曰く
「ディジーはベニー・カーターのところでサイドマンとして演奏していたが彼の頭の中は『プレイしたい、プレイしたい、プレイしたい』それだけ。演奏の合間に1時間の休憩があったんだけどその休憩の合間にシットイン(飛び入り)できるところを歩いて探し回ってジャムってたんだ。」とそのクレイジーさを物語っています。
さすがレジェンド、面白い伝説ですね。
そんな中ゲッツはまだその世界では新顔、ベテランたちにはすんなりと受け入れられませんでした。
しかしテナーの名手ベン・ウェブスターには受け入れてもらえたし、あの憧れのレスター・ヤングに会うこともできたのです。
ゲッツはこう語っています、
「その昔、52丁目通りでたくさんの偉大なミュージシャンの演奏を聴いたもんだ。その時はグッドマンの楽団に入っていたが52丁目通りのミュージシャンの仲間入りをしたかった。でも僕の飛び入り演奏を許してくれるものはいなかった。ただ ベンだけは例外だった。彼はビューティフルな漢だよ。彼は僕が演奏したくてたまらないことを知っていた。そして時々声をかけてくれたんだ。『いいぜ、坊や、楽器(ホーン)を取りな。』ってね。そして僕は彼のカルテットに入って演奏させてもらいすごく嬉しかったんだ。」
そして続けます。
「ある時、そんな風にベンと一緒に演奏したあと、ふと見るとあのレスター・ヤングがステージの裏にいたんだ!あのプレス(レスターヤングのニックネーム。プレジデントの略で一番偉い人の意味。ビリー・ホリデーが命名)が僕の演奏を聴いていたんだ!!僕がどんな気持ちだったかわかるかな?プレスとは初対面だったし、僕は口籠もっていたし、お会いできて光栄ですくらいしか言えなかった。でプレス僕に言ったんだ『いい目だ(レスターヤング語で言うところの、いいじゃないか。か、の意味)。プレス、頑張れや。』彼が僕のことをプレスって呼んだんだぜ!忘れられないよ。」
4_ベヴァリーとの出会い、そして結婚。
グッドマンのバンドで活躍する最中、ゲッツは52丁目通りで演奏するトランペッター、レッド・ロドニー自分と似た精神を見出しました。ロドニーはゲッツと同じくユダヤ系、そしてフィラデルフィアの出身でした。
出会った時、ロドニーはエリオット・ローレンスの楽団に所属していました。
しかしN.Y.であのジーン・クルーパーの興味を強く惹いてしまいます。
ちょうどロドニーはエリオットの楽団との契約が終了するところだったのでクルーパはロドニーを雇い入れます。
ロドニーのクルーパの楽団での初演奏はメトロノーム誌で高く評価されており、「ディジー・ガレスピー風の演奏で彼はこのバンドをさらに良い方向にスパークさせていくだろう」と記された。
ゲッツはよくロドニーとロサンゼルス中をうろつき回った。
ディジーとパーカーがビバップ音楽をL.A.に紹介している場面にも出会ったりした時は高まりました。
そんな二人は間も無く一緒に演奏する機会を得ます。
とあるプロモーターがグッドマンの楽団とクルーパの楽団をバトルさせる企画を用意したのです。
グッドマンとクルーパーは盟友でありながら第一線のライバルでもあります。
この当時ビッグバンド同士をバトルさせるのはよくあることで、それぞれの腕利きのソリストや超絶なアレンジをぶつけ合う音の勝負の場で聴衆を熱くさせました。
しかし熱くなったのは音楽だけではありませんでした。
ゲッツは初めての恋に落ちます。
その時クルーパーの楽団に女性歌手の欠員が出ていました。
穴埋めとして契約していた18歳の女性歌手、ベヴァリー・バーンは会場のセッティングを行なっている中、トランペッターのロドニーがグッドマンの楽団の若いハンサムなテナーサックス奏者と話しているのを見つけるのです。
そのハンサムが本番中にあまりにも美しいフレーズを吹いたのを聴いて、私はこの人と知りあわなきゃいけない!と心決めたそうです。
そこでコンサートが終わった後ロドニーに頼み込んでゲッツと引きわせてくれるようにねだりました。
ベヴァリーはしっかりとしたハスキーは歌声はいつも周りを驚かせた。
というのもベヴァリーは身長が150cmほどしかなくそんな華奢な体だったからだ。
それでいて持ち歌のレパートリーも多かったのでクルーパの楽団のトラの仕事も難なくこなせた。
バトルコンサートが終わった後、ゲッツとベヴァリーは一緒に飲みに行った。
二人は10代の男女らしくお互いにのぼせ上がってしまった。
彼女は可愛らしく、頭は歌でいっぱい。そしてゲッツの才能に惚れ込んでうっとりしてしまっていた。
そんなゲッツも生まれて初めて女性に魅せられてしまいました。
ベヴァリーの兄も両親もアル中、なのでゲッツの酒や薬の依存症もなんら気になりませんでした。
ゲッツとベヴァリーが出会った少し後で、クルーパの楽団の正式な女性ボーカルが採用されベヴァリーはクルーパの楽団を去りました。
その後はグッドマンの楽団の楽屋の備品のような存在になって各所を周り、スタンの本番が終わるとLA中を周りアフター・アワーズのジャムセッションに参加しました。
グッドマン楽団がNYへ戻った際にベヴァリーもそれについて行ったのです。
しかしNYに戻ってからのゲッツは忙しくバンドの1日の拘束時間は18時間に及びました。
週に43回のショーをこなすと言う前例のない事態になっていたからです。
ベヴァリーは自分の仕事を探して周り友達のツテでランディー・ブルックス楽団の歌の仕事を手に入れました。
そんなゲッツはまたやらかします。
ゲッツは1年半前にドラッグ漬けになってから初めて、ドラッグの売人の都合でヘロインの入手ができなくなるのです。
麻薬中毒者の最優先事項はブツの入手。
薬が切れたゲッツは半狂乱状態になってNYの街を駆け回りました。
なんということでしょうか、、そのせいでグッドマン楽団のステージを4回連続ですっぽかしてしまいました。
これにブチギレたグッドマンはゲッツを即刻解雇する事態になってしまったのです。
職を失ったゲッツは貧窮しました。
しかし実力派ミュージシャンのカップル、お互いの実力とコネクションをフルに使って楽団での仕事やレコーディングをこなし1946年5月号のメトロノーム誌にまた高く評価されます。
これは二人の商業的価値が高まったことを表しているのです。
やがて秋になるとゲッツはホームシックなります。
あたたかい陽光に包まれたLA、そして家庭が恋しくなってきます。
ベヴァリーの仕事の契約も間も無く終了すること、今ゲッツが所属している楽団のアレンジに飽きたこと、これらをきっかけに決意するのです。
南カリフォルニアならまともな生活ができるだろう、と二人はNYを後にし西に向かいました。